世界有数の香水の原料の産地として名高い南部の町 カラア・ムグナ(Kelâa M'Gouna قلعة مݣونة)。ダマスクローズの収穫の季節は、5月のわずか2週間ほどと聞く。このピンポイントの時期に今年は折りよくタイミングを見つけられたので、出かけてみようと思い立った。摘みたてのバラの芳香に包まれることを想い描いて。
峠を越えて。南へ。
直前に取った宿は、バラの谷から約50kmあまり手前のオアシスの町 スコラ(Skoura سكورة)。幹線道路から折れて土漠に入る。密生する椰子の木。立ち並ぶカスバ。その間をぬって4kmほどオフロードを行く。
乾いた砂ぼこりを浴びながら、土壁に開かれた木のドアを抜けると。一瞬の間に世界は一変する。
古いカスバを改装したそのメゾン・ドットは、まるで小さな庭園。穏やかな空間に入り込むやいなや、直前までの時間の流れはぴたりと音と立てて遮断された。
波紋が映り込んだプールの底に潜って無音の中を漂う。ハンモックに揺られてハードカバーのページを繰る。鳥のさえずり。犬2匹、猫1匹とのたわむれ。
デジタル・デトックス。
記憶の奥の奥から、ふと昔の旅の記憶が浮かびあがってきた。この町のチーズの美味しさについて。5,6年前、もしかしたら7年くらい前? ひとり旅をしたときに食した味覚。
どんな時間に到着したのかは覚えていない。まずは空腹を満たすため、バスから降り立ったその足で切符売り場の食堂にそのまま座った。すると、ここに来たならば食べない手はないと、その土地特産の山羊のチーズを促された。
半ば食べず嫌いだったフロマージュ・ド・シェーヴル。それなのに、なりゆきで食べることとなった、地元オアシスの女性たちが作ったという数切れの美味しさといったら。野性味溢れる濃厚なはちみつが身体に染み渡る。それとは対照的な柔らかい日差し。地のものを食す豊かな時間の、そのゆるやかな流れ。
小さな田舎町のウェルカム・チーズ。
翌朝、蜂の羽音を聴きながら。朝食の時間。
記憶によみがえったオアシスのチーズの話をしていると、宿のオーナーからの提案。山羊のチーズを使った前菜をディナーにひと品出そうかしら。小粋でアット・ホームなはからい。おかげで、夜の愉しみができた。
いざ、バラの谷へ。
ところが、いつしか旅の目的は忘れられて。
気づくと向かっていたのは、記憶の彼方のあの場所。
道を尋ねながらたどり着いた食堂には、乗合タクシーを待つバックパッカーの西洋人カップル、ミントティーを飲む中年のモロッコ人男性。そして数年前と同じ主人。再訪は幸運にもフレッシュ・シェーヴルの季節。
オリーヴオイル、塩・こしょう、そしてはちみつ。同じ食器に同じ盛り付け。この地方独特の薄くて大きなパンの不均等な細長い切り方までも、あの時と変わらない。
ただひとつ、テラス席からの眺めだけは違う。乾燥地帯の木 タマリス(tamaris)の風にそよぐ枝垂れは、前回は見られなかった黄色い小花のデコレーションを付けていた。緑のカーテン。発着所というこの場所を行き交う旅人たちを優しく囲む。旅の疲れを癒すかのように。
午後の庭。17時ころからアペリティフを始める人々。
宿泊客がだいたい出揃う夕暮れ時に、なんとなくディナーが始まる。
チーズのトーストが添えられたオーソドックスなサラダという予想を大きく裏切る形で目の前に出された前菜は、見事な不意打ちのマリアージュ。タムグルート焼きの深緑色のお皿には、白いんげん豆と山羊のチーズのサラダが盛られていた。これに合わせて、ワインは国産のグリ(gris)を。
ふっくらしたお豆に絡まるチーズのクリーミーな味わい。完熟トマトの甘みと酸味、そしてフェンネルの葉の余韻。ランタンのほの明かり、南部の音楽。同じ空間で同じひと時を過ごす旅行者たちの、それぞれのテーブルで弾む会話。
昏れなずむ夕空の下で、前菜を終える頃にはグレー・ワインのボトルは空っぽ。
まだ明るかった空色は食前酒からディナーのテンポに合わせて移ろい、デザートを終えるころにはすっかり夜の色に。
新月に当たった夜空は真っ暗闇。夜が更けるとともに星々は徐々にその数を増した。
旅の目的地、バラの谷。始まりの時にはそのはずだった。結局は見ることのなかったダマスクローズ。代わりにたどり着いた終着地は2皿のシェーヴルと、そこにあった風光たち。
気分のまにまに。ひらめきのまにまに。味の記憶をめぐる旅。
- Address -
Les Jardins de Skoura
Palmeraie de Skoura, Province de Ouarzazate 45502 Skoura
MAROC
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