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第44話 宙に咲く




 初めて来た日に、この家に移り住むことをその場ですぐに決めた理由は、地上階で愛猫 アマンにとっても散歩がしやすいと思ったからと、一緒に連れて来ていた彼女もどうやらまんざらでもないみたいだったから。


 でも、それにも増して決定的だったのは、大きな窓のある南向きのキッチンと緑豊かな広い庭。






 マラケシュに移り住んで1軒目のアパルトマンは新市街の中心で何不自由なく便利だったけれど、誰もがイメージするような“混沌とした街”マラケシュに住んでいるという実感は希薄だった。マラケシュに住むなら一度は住んでみたいと多くの人が思うのは、やはり旧市街のリヤド造りの家ではないだろうか。心のどこかにそんな気持ちもあってのことか、あまりにも月並みな都会の真ん中での暮らしはなんだか物足りなかった。





 2軒目はジャルダン・マジョレルのすぐ近く。メディナ(旧市街)ではなかったとは言え、この立地はなかなかだった。休みの日には入場料を払ってマジョレル内の決まったベンチ、ゴムの木の下で読書をしていたものだ。今でこそ中に入るだけでも大行列だけれども、あの頃は庭園が混雑していたという記憶はほとんどない。

 





 とは言え、場所そのものとの相性は実のところ悲惨なものだった。人にはどうやら相容れない空間というものがあるのらしい。そんな日々の中の唯一の救いが、歩いて5分のマジョレルの緑と空気、そしてゆるやかに流れる時間だったのかも知れない。





 折りよく引っ越し話が舞い込んできた。絶妙なタイミングで届いたご縁に胸弾ませて見学に来たのが、今の44番地の家。この魅力的な一軒家は、マジョレル庭園ディオール邸とは正三角形を描くようにして、そしてマジョレルと「幸運」地区を結ぶ直線のちょうど真ん中くらいに位置する。


 マラケシュに住む外国人、特に西洋人や日本人は、概してメディナ(旧市街)や新市街の中心であるギリーズ(Gueliz)、イヴェルナージュ(Hivernage)、それに少し郊外の高級住宅地 パルムレ(Palmeraie)に集中して暮らしている。先入観が作り出したそのくくりから「逸脱」したエリアに住むことになるとは、その日まで思いも寄らないことだった。


 家を見せてもらう約束の日、見えない境界線を超えるようにして未知のエリアを訪れた。芸術家の大家が自らの設計とデザインで建てたのだという家。ゴダール映画の中に出てきそうな白くてシンプルで、でもどこか少しおかしな形の広い空間。


 そのゴダールの「気狂いピエロ」の中でだったか、もはやうろ覚えだけれども、こんな言葉があったと思う。ある始まりの終わり。そう、マラケシュ生活におけるデビュタント(débutante;新米)はこれで卒業。憧れのメディナ暮らしは、スークで仕事をするという次なる夢に変化した。






 都会の中のオアシスとはこういうことだろうか。環境音は喧嘩の声やバイクの音から小鳥のさえずりに変わり、その鳥たちはやがて朝ごはんの後のパンくずを求めて家の中にまで通ってくるようになった。


 もともとは大家夫妻が暮らしていたこの家のキッチンは、料理好きの夫人のために贅沢にスペースを取った開放的な作り。大きな窓の外には青々と茂る緑のカーテン。殺伐としたアパルトマンから逃げるようにしてやってきたこの家の緑が心底ありがたかった。







 仕事部屋や寝室の窓の外に広がる庭には、ブーゲンビリアはもちろんのこと、レモンの木、ざくろの木と季節によって色が変わる。


 そしてサボテンたち。家の敷地内でいつもそこにある小さなマジョレル庭園。









 サボテンはアラビア語でスバル(صبار)と言う。サボテンの繊維から作られる植物性繊維の糸 サブラ(صبرة)もサボテンの意味。と同時に、「スバル」は「耐える、凌ぐ」という意味を持つ言葉でもあるけれども、「サボる」の音によく似ているのがおもしろい。モロッコ人を眺めていると、勤勉の国からやってきた者の目には「サボっている」としか見えないのに、本人たちは実はがんばってるというのも多々あるわけで、これは言い得て妙だとひとりごちる。


 「Science & Vie(科学と生命)」を毎月熱心に購読する大家が聞かせてくれたところによれば、砂漠の植物であるサボテンは水もない中で熱風にさらされ耐えているから「スバル」という名前なのらしい。うそかまことか、冗談が好きな彼の言葉遊びなのかも知れないけれども、そのイメージは言葉の世界にストーリーを与えてくれる。


 一方、大家夫人が教えてくれたのはサボテンについてのもうひとつの秘密。高くそびえる胴体の節々にあるくびれ、これが木で言うところの年輪のように1年間を表しているのだそうだ。くびれを数えれば何歳なのかがわかるということになる。それに、よく成長した年、なんだかくすぶった年、そのどれもが目に見える形で身体に刻まれ、今のプロポーションを作り上げている。隠し立てすることなく、すべてをさらけ出して。まさに等身大のアイデンティティ。そして、その姿は例外なく美しい。

 5月も半ばの満月のころ。急に暑さを増したある日、庭のサボテンがにわかに花を咲かせた。夜中に開いて朝にはしぼんでしまう。1年に1度だけ、真夏の暑い盛りに美しい花弁を冠する立ち姿は、たった2、3日の盛りを迎えては、はかなく終えてしまった。





 熱風に耐えているから、とは聞いていたけれども。もしかしたら、あるいは、この花盛りのわずかな瞬間のために、ほかの時間はただひたすらじっと耐えているからスバルなのかしら。「花を咲かせる」というのはそういうことなのかも知れない。きっと。








 ある日、大家夫人がささやかな未来の計画について知らせてくれた。キッチンの窓の前にジャカランダの木を植えるかも知れないという夢のような話。この家に越してきてわりとまもなくの頃に、小さな会社の登記の手続きを済ませたのは、忘れもしない5月のことだった。


 この家にジャカランダの木がやって来たら、淡い紫の花々をほころばせて5月の記念日を毎年のように祝ってくれるだろうか。そしてサボテンたちは、またもうひとつ見事にくびれを増やして、のっぽ姿に一層磨きをかけているに違いない。


 インシャアッラー




 44番地。始まりの場所。


 同じ場所にありながらにして、心の視界には新たな扉が現れてきた。はて、次なる世界へ続く扉だろうか。






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