第33話 ベールとガラスの靴
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- 2019年3月23日
- 読了時間: 3分

初めてこの町を訪れた時、目に飛び込んで来た光景にノックアウトされてしまった。男性は黄色、女性は赤。山奥にひそむ小さなこの町では、ここに住むほとんどすべての住民がこの町ならではの特別な靴、タフラウトを履いているのだ。


町の名前がそのまま名付けられた、見れば見るほど愛くるしいフォルムの外履きバブーシュ。

かかとの部分だけが通常の靴の2倍くらい高くなっている。そのまま履く者、つぶして履く者。道ゆく人、みんながみんな履いている。
この世界にはありとあらゆる無数の種類の靴が存在しているというのに、ここではまるでタフロウトこそが唯一靴として認められているかのように。
女性たちは黒いベールで全身を覆う。スカリ(金色や銀色のラメ素材)のスフィファ(リボン状の縁飾り)でベルベル文字“ⵣ”が装飾されたその黒い布の裾からは、赤いタフラウトをつけた両の足がせわしなく動いている。

女性たちの衣装めぐりをテーマに旅を続けるため、タフラウトからティズニットへと移る。潮風と強過ぎない陽射し、ピンクベージュの建物に黄色と水色が挿し色になった柔らかな印象が心地良い。



ところがこの町の空気感に反して、なんと激しい色彩を身にまとう女性たちが行き交うことだろう。
カナリアイエロー、マゼンタ、ターコイズブルーにタイダイ染め。メルハフ(ملحف)と呼ばれるその布は、西洋的な視点においては「抑圧の象徴」と捉えられがちのベールの意味をそれ自体が覆してしまうような、個の存在を主張するもののように思えた。ここでは町並みがキャンバスでしかなく、そこに大胆な色を叩き込むようにして極彩色の女性たちが街角を行き交っている。



qiyas(قياس)という言葉がある。大きさだとか寸法だとかいう意味になるだろうか。旅の締めくりタルーダントでは、なんてことのない日常使いのこの言葉を不思議と何度も耳にした。


滞在中毎日通った骨董屋の主人が聞かせてくれた昔話は、王様と水売りのそれぞれのqiyas(身の丈)にあった幸せについての寓話だったし、同じこの主人には、あなたのqiyas(ふところ事情と価値観)にかなっただけの宝物を買って帰りなさいという助言をされた。散々迷った挙げ句、トゥワレグのアンティーク・ブレスレットを譲ってもらった。
そして決まって午後いっぱいを過ごしたカフェ。ミントティーに入れる砂糖の分量は「あなたのqiyas(好みの塩梅)でどうぞ召し上がれ」。

滞在していたホテルには大衆酒場が併設されていた。毎朝部屋を掃除してくれた女性がこぼすには、「まったく、ここの男たちはqiyas(際限)なしで大酒を飲むのよ」とのこと。


ある朝、この掃除婦がタルーダントに特有のインディゴ染めのリザール(ベール)を着せてくれた。スークに並ぶ数ある選択肢の中で、ここの女性たちの多くがあえて周囲と同じ藍色を選ぶのはなぜだろう。

でも待って。無条件に流行を追うことが、必ずしも“自分らしさ”の表現であるとは限らない。肝心なのは「ぴったり合う」ということ、それだけではないか。ぴったりなのは純粋にサイズかも知れないし、色やデザインであるかも知れない。それに時々の気分や無意識の中に潜む心の声なのかも知れないし、それがハイヒールであるかも知れないし、バブーシュであるかも知れないのだ。

その土地の風土、住人たちの意識や無意識の中で息づくqiyasがある。そして、そのさらに内奥にはそれぞれ個々のささやかなqiyasが。自分にぴったりな幸せのかたち、あり方、qiyas。
旅の終わり、インディゴのベールに包まれて。モードと伝統というテーマに加えて、“qiyas”という言葉こそが、女性たちのファッションをめぐるこの旅のキーワードだったのだとふと思い当った。そしてそれが同時に、自分自身が内包するqiyasに光を当ててくれたということにも。
午前零時。おとぎ話とは違って、スィンディリーラ(سندريلا)の魔法は永遠に解けない。それが本当に自分にぴったりと合うものなのであれば。

「地球の歩き方 モロッコ '12-'13」掲載
『旅めがね vol.3 モロッコのガラスの靴 』に加筆修正
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