こちらへ来たばかりのころ、「スパイス」というものの定義を考えさせられたものだ。スパイス屋には、いわゆる香辛料だけではなく、ハーブ、美容品、染料や顔料が一律に売られているのだもの。なんだか不思議。
化学調味料を使う習慣はすっかりなくなった。そしてふと気づけば、日々の料理にはハーブやスパイスをふんだんに使っている。今やすっかり日常的になっているものの、出会ったばかりの頃にはカルチャーショックなスパイス使いが結構あった。目からうろこなのは、何と言ってもその驚くほどのお手軽さ。
例えばシナモン。輪切りにしたオレンジにパウダー状のシナモンをまぶすだけのシンプルなデザート。リヤドのディナーでも観光客向けの食堂でも出される定番中の定番の、そのおいしさと言ったら。
そして、一度覚えたら病みつきになるクミン塩は、ゆでたまごには欠かせない調味料のマリアージュ。塩はウリカの岩塩を。卵はベルディ(養殖ではなく天然)を選ぶ。黄身がぎゅっと凝縮していてまん丸く、味も色も濃くておいしい。これひとつで立派なアペリティフのお供にもなるので、あと一品という時には重宝する。
炭火焼き肉にもクミン塩は必須。
美味しいお肉を食べたいならば、レストランや食堂ではなくて定評のある肉屋に行くに限る。そう、モロッコには焼き場が併設されている肉屋がいたるところにあるのだ。好きな種類の好きな部位を好きなだけ買い、敷地内だったり隣だったりする焼き場に自分の手で持って行く。今度は焼き方衆に好きな焼き具合を伝えて、付け合わせたい野菜なんかもあれこれ注文し、あとは座って待つ。
もくもく煙の中で食べる捌きたて、焼きたてのお肉は格別。そんな日には、脂だの何だのと気にせず頬張る。食後のミントティーで、お腹の中の脂肪を溶かして流しさえすれば良いのだから、とはモロッコ式のポジティブ解釈。
スパイスの国とは言え、料理そのものが辛いというのはモロッコではほとんどないように思う。辛みや刺激が欲しいときには、トッピング・スパイスのハリッサ(Harissa هريسة)が効果的な働きをする。これは香辛料入り唐辛子ペーストで、クスクスを食べるときのアクセントとしても欠かせない。モロッコ料理だけではなく、中華炒めやアラビアータを作るときに代用したりと何かと便利。
自家製ハリッサは家庭や店によりレシピはさまざま、食べ比べる愉しみがある。バブ・エル・ハミス(Bab el khmis باب الخميس)の大衆食堂で出される、にんにくがまるごと入ったダイナミックなハリッサは特にお気に入り。
ハリッサの変化球にサムライ・ソース(sauce samouraï)がある。ベルギーが発祥と言われるこの逆輸入ソースは、モロッコでもスナック(軽食食堂)での定番。マヨネーズとハリッサが五分五分くらいで混ぜられたもので、サンドイッチやシャワルマ(chaouarma شاورما )の付け合わせのフライド・ポテトには必ずと言っていいほど一緒に出される。
我が家でも、ベルディの卵で作る自家製マヨネーズに、ハリッサとレモン汁を加えてこしらえるサムライ・ソースの出番は少なくない。揚げたジャガイモだけでなく、ベイクド・ポテトや温野菜との相性も良し。
ラス・エル・ハヌート(ras el hanout رأس الحانوت)。店の主人の秘密の調合によるミックス・スパイス。決まったレシピはなく、その中身は謎めいている。
コリアンダー、ターメリック、クミン、キャラウェイ、カイエンヌ・ペッパー、フェヌグリーク、フェンネル、にんにく、カルダモン、シナモン、ジンジャー、クローブ、エトセトラ、エトセトラ。
「ラス」はアラビア語で頭、「ハヌート」は店。つまり、“当店のトップ商品”とでも言ったところだろうか。
ムルージヤ(mrouzia)はシナモンが多めで甘みのある、肉料理用ブレンドのラス・エル・ハヌート。マラケシュ名物の壺料理 タンジーヤには、このムルージヤをたっぷり入れる。
壺に肉とスパイス類をごそっと入れて封をし、熱した炭で何時間も蒸し煮にする。午後一番で仕込んだスパイス・マジックは、夜には大ごちそうに。
ある日、カリフラワーのポタージュを作っていた夜のこと。最後の塩こしょうの段になって、セロリ塩と間違えてラス・エル・ハヌートを振り入れてしまった。それがなんとも棚ぼたなおいしさ。それからというものの、スパイス入りポタージュはメニューの定番入り。怪我の功名で生まれるレシピは、難しそうだと敬遠しがちなスパイス料理への扉を開く。
ひとつまみのスパイスが日々に彩りを与えてくれる。あ、それでわかった。一見ごちゃ混ぜにあれこれ入り乱れているスパイス屋は、日常を色とりどりに染めてくれるものを売る店なのだということが。
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