それは、ごくごく当たり前のことだった。
そんな風に思っていることは、誰にだって幾つも思い当たると思う。
彼女もそうだった。
いつもあの姿でそこにいてくれたのに。
5区にあるモスクで午後のお茶をたっぷりと時間をかけて愉しんだ後、
決まってセーヌ川のほとりを東から西に、余韻を纏いながらゆっくりと歩くお決まりの散歩道。
若葉が眩しい今時分だと、まだ太陽はやわらかく地を照らし、みなもは街並みを映しながらウィンクするように反射する。
ディナー前の、みんながリラックスする夕刻のひととき。
シテ島に歩みを進めて行くと、ほら。
彼女が、そこに。
しなやかで品格に満ちた女性のように、そこに何百年も佇んできたノートルダム寺院。
4月15日に炎に包まれ、てっぺんにあった美しい帽子をうしなった彼女の姿をこの目で見た時は、心がみしみしと音を立てた。
いつもその佇まいでいてくれるんじゃなかったの?
永遠などというものは存在しないと分かっていても、ぽっかりと空いたこの穴をどうしてくれよう。
そんな時に親友がかけてくれた言葉は、行き場のない心を真綿のように包んでくれて、なんだか救われた。
「彼女は私たちみんなの痛みを全部、引き受けてくれたんだよ。」
La vie continue.
(それでも人生は続く。)
悲しいことがあっても、それを乗り越えて生きて行かねばならないときに、フランス人が決まって言うフレーズ。
道程に虹をかけて、また人生を続けよう。
それでもセーヌ川は流れるし、
やっぱりパリはパリのまんまなのだから。
C’est la vie.
それが人生ってもの。
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